福沢絵画研究所 R

FUKUZAWA Art Institute R 1936 → 1941 / 2019 → ????

福沢絵画研究所とは

What is FUKUZAWA Art Institute?

研究所夏季講習会集合写真

1937年8月

福沢絵画研究所は、1936(昭和11)年10月、東京市本郷区動坂町(現在の台東区千駄木)にあった福沢一郎の自宅兼アトリエで開設されました。人々の回想や当時の雑誌記事などから、福沢は1922(大正11)年に彫刻家を目指していた頃に建てたアトリエを増築し、研究所の開設に備えたようです。
研究所として使われた広い部屋には福沢の作品が架けられていて、大きな本棚には福沢がフランスで買い集めた画集や美術史の書籍などのほか、帰国してから取り寄せた海外の雑誌や日本の哲学書などが並んでおり、研究生はそれらを自由に読むことができました。
この研究所は、ほぼ一日中研究生に開放されており、19歳のとき入所した山下菊二(1919-1986)などは、朝から晩まで研究所に入り浸っていたそうです。また、指導方法は人によって随分異なっており、報道写真家の笹本恒子さん(1914- )は、椅子に布をかけた静物画を研究所で描いたと語り、美術評論家の本間正義(1916-2001)は、東大絵画研究会の面々と研究所に通って、1日3時間くらい、1週間かけて30号くらいの絵(裸婦像)を1枚仕上げるという課題に取り組み、時折福沢がパレットを持って直してくれたといいます。山下や早瀬龍江(1905-1991)など本格的に画家を目指す人々は思い思いに制作に取り組み、福沢から絵画技法について教えを受けることはほとんどありませんでした。それよりも、本を読んだり展覧会を観に行ったりすることを勧められたり、文化芸術に関する幅広い話を聞くことが多かったといいます。また、研究所の本棚にある西洋古典の画集や芸術書、さらには福沢の作品などから影響を受け、コラージュ風にイメージを組み合わせて画面をつくりだすことを試みるものもいました。
研究生だけでなく、「池袋モンパルナス」の住人たちや東京美術学校の学生など、多くの若い画家たちが集い、新しい絵画・芸術のすがたを各々が模索する熱い場所だった福沢絵画研究所。しかし、1937年の日中戦争開戦以降、自由な芸術表現はさらに抑圧を受けるようになります。1939年、福沢を中心として結成された美術団体「美術文化協会」には、研究所に学んだ画家たちも参加しました。その活動の中でも自主規制・自己検閲がおこなわれ、団体内部にはさまざまな感情が渦巻いたといいます。そして1941年4月、「シュルレアリストは共産主義者なり」とする治安当局の方針によって、福沢は治安維持法違反の疑いで逮捕され、約半年間留置所での生活を余儀なくされます。逮捕の直後から研究所は閉鎖となり、以後活動を再開することはありませんでした。 しかし、研究所で学んだ人々の多くは、厳しい戦争の時代をくぐり抜け、画家として、教育者として、あるいはひとりの表現者として、戦後日本を逞しく生き、大きな足跡をしるしています。彼らが表現し続けたものの土台には、熱気がたちのぼる研究所で学び、吸収したさまざまな事柄がしみこんでいることでしょう。その意味を、現代に生きるわたしたちは、さらに追い続けたいと考えています。

福沢絵画研究所についてもっと知る

How to know about Fukuzawa Art Institute

研究所を取り上げた画期的な展覧会

2010-11年に、板橋区立美術館で同研究所をテーマとした展覧会が開催されました。同図録は研究所の全貌に迫る画期的な内容です。

板橋区立美術館HPへ

最新の展覧会にも注目

2019年に東京国立近代美術館で開催された「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」では、1930年代に制作された福沢作品をほぼ網羅。研究所時代、福沢にあこがれた若い画家がどんな作品をみていたかがわかります。

東京国立近代美術館HPへ

近刊でも研究所に言及

わたしたちの研究成果『超現実主義の1937年 福沢一郎『シュールレアリズム』を読みなおす』でも、福沢絵画研究所の役割は紹介されています。

みすず書房HPへ